井上千鶴 インタビュー #1

井上企画・幡の仕事
 

井上企画・幡は、カメラマンの井上博道と奈良の麻問屋に生まれた千鶴夫妻が創業した会社です。
博道は、2012年撮影中に倒れ 81歳で他界するまでカメラと共に生き、沢山の作品を残しました。一方、千鶴は麻の風合いを活かしたバッグや生活雑貨を開発し、卸販売や直営店舗を展開。創業から35年、「幡」の名のもとそれぞれのフィールドで、オリジナリティを追求した世界をつくってきました。

2022年6月 奈良市中登美ヶ丘に「井上博道記念館」をスタート。

井上博道記念館 開館から一年を迎えたこの機会に、井上博道の魅力に改めて迫るべく、広報担当が井上千鶴にインタビューを行いました。
その様子を3回に渡ってお届けします。


#1 井上博道の軌跡をたどって

――まずは、井上博道というカメラマンに触れたいのですが。一瞬の間を写真で切り取るカメラマンとして活動する中で、自身が大事にされていたことってなんでしょうか。
井上千鶴(以下、井上) それは感性に響くか、心が動くか。ということですね。本人が美しいと思うもの・感動するものを追求して写真に収めてきました。日本の伝統とそれを育んだ自然が好きな人だったので、その琴線に触れる「モノ」や「コト」に出会うと必ず撮りたいと、そればかりを考えていた人でした。

今ちょうど、伝記というほどのものではないですが、博道の人となりをまとめようと思っていて、少し前から、旧友や仕事関係者などにインタビューをしているんです。その中で皆さん口をそろえて言うのは、「博道さんの悪口を言う人って滅多にいないよね」と。非常に穏やかな人だったので、一日中好きな仕事をして。好きな写真に出会って。それでいい人間関係をつくりたい。ということもあったのではないかと思います。

――もともとは、蟹の有名な兵庫県香住にある禅寺の出身ということで。それが基礎となり、作品に繋がっていると思いますか?
井上 生まれた環境の影響は大きいでしょうね。田舎のお寺でお堂の中を走り回るような子供だったようです。そのような事が日常的にある環境で育って、大学進学で京都へ出てきて。その時も、南禅寺の塔頭に下宿していたので、変わったかと言ったらあまり変わってないかもしれませんが、京都という都会の中で、日本の伝統文化に触れるいい機会になったのだと思います。
大学時代には、西本願寺のアルバイトとして写真を撮っていました。西本願寺の白書院や能舞台など、桃山時代に発展した数寄を凝らしたような美の世界。香住にはなかった雅な世界を見ているうちに、モノを見る目を養っていったのではないかと思います。
日本の伝統って他のものとは違う味わいですよね。西洋美術は石で出来たものが多い中、日本の美術は塑像や木彫、銅像でもやわらかな雰囲気があります。西洋にはない独自の美しさ。それをもっと色々な人にわかってもらいたい、というのが写真家としての原点だと思います。そういう、若いころに培ったものと、自身の中にあった仏教的な思想が融合して、独自の世界が作り上げられたのでしょう。

美の脇役 ¥921

その想いが一番伝わってくるのが、書籍「美の脇役」です。企画は司馬遼太郎さん、撮影は博道のコンビで作った一冊。彼はお寺に入っても、全体像を撮るというよりは、心に響いた一部分や象徴的なものを撮影していました。四天王に踏みつけられる邪鬼や石段に彫られた文様など、主役にはならずとも独特の存在感を放つ「美」に目を奪われます。

――司馬遼太郎さんと交流があったのですよね。
井上 はい。学生時代に、本願寺の記者クラブで司馬遼太郎さんと出会いました。この出会いが後の運命を大きく変えることになります。博道は、実家の寺を継ぐべく京都の龍谷大学に入学しました。龍谷大学の隣には西本願寺がありますが、当時、西本願寺が雑誌を出そうとしていて、その雑誌の編集長に青木幸次郎という人物がいました。学生アルバイトとして撮影のために度々西本願寺に足を運んでいた博道に目をかけてくれたのが、この青木さんでした。青木さんは友人の司馬遼太郎さんに「面白い学生がいるよ」と博道を紹介してくれたのです。この時の出会いがご縁となって、博道は数年後に産経新聞社に入社しました。博道が入社した当時、司馬さんは文化面の編集を担当されていて、その時に司馬さんが企画したのが「美の脇役」でした。司馬さんは博道を担当カメラマンして欲しいとデスクに直談判してくれたようです。当初は産経新聞の文化面に連載されたものですが、好評を得たことから単行本として出版され、これが博道の初期の代表作になります。青木さんとの出会いが司馬さんとの出会いに繋がり、その結果、後に何冊もの写真集を著す写真家になって行く。青木さん、そして司馬さんとの出会いがなければ博道の人生はどうなっていかことか。今になっても時々考えることがあります。

また、博道がフリーカメラマンになる時、東京に拠点を移すべきか相談した際には『きみはいったい何を撮りたいんだ。撮りたいのは京都や奈良だろう。どこにいても、いい仕事をしたら人は来てくれる。東京になど行かなくていい』という司馬さんの助言に従って、奈良に住み、自然や仏像を撮り続けました。

――写真家 井上博道の活動におけるエピソードを教えてください。
井上 博道は、はじめから終わりまで、写真の人でした。頭の中って写真のこと以外ほとんど無かったんじゃないかな。寝ても覚めても、四六時中。例えば、九州や西日本で作品を撮って、自宅に戻ったその足で東へ、ということも珍しくありませんでした。
作品や作風については、自分がこう、と決めたら貫き通す。『これだけの数を撮ってきてどうするの?』と思うような量のフィルムをどんどん撮ってきて。私はそういうことに関しては何も言わなかったけれど、14~15万点はあったのではないかと思います。すごい量ですよね。本人も、それは勿論わかっていたと思いますが、判りながらも撮る量を抑えるというのをしたくない人だったんです。『自分の気持ちをなんとか作品に表現したい』、それ一本の人でしたから。

――井上博道の活動を支える妻として、思うことはありましたか?

井上 私自身、「支えている」という気持ちは全くなかったですね。自分も会社でモノを作って売って、やりたいことをやろうと思って生きてきましたし。博道の活動で、日々フィルム代や印刷代がかかってきましたが、でも、それに見合うだけの仕事量をこなしていましたからね。彼はもともと身体に病気を持っていたのですが、病気のことは意識せず、むしろそれを忘れるようにしていました。私ができることと言えば、食生活のことを考えるぐらい。そこは、普通の方以上に気をつかっていたと思います。

――お二人の関係性について教えてください。
井上 私たちは夫婦ではありましたが、「理解者」「同士」という言葉がしっくりきますね。
私自身、古い家の出身なので、小さな時から「日本のしきたり」や「古いもの」に囲まれた生活をしてきました。二人ともが日本の伝統的な文化の中で育ち、それによって裏付けされた美意識やよろこび、感激。というのが私たちの共通の価値観だったのではないかなと思います。

――これから井上博道の写真に触れる方に向けて、伝えたいことは?
井上 博道を端的な言葉で表すとすれば、「感性と色の表現に長けたカメラマン」。彼の表現した「色の深さ」にぜひ注目してみてください。私も、毎日写真の仕事をする中で、世の中に出ているコマーシャル写真と、博道の色彩感覚ってまったく違うな、と感じます。自然の中にある、色の力強さというか。

奈良県吉野郡川上村 筏場から屛風滝途中 新緑と水流(2003)

(写真を見ながら)これは水に濡れた石の写真なんですけど。自然のものっていうのは、水に濡れた時と濡れないとき 劇的に表情が違います。それを引き出す為に、彼は必ず石庭や山水の庭でも必ず水をやって撮影したものです。
私もその世界が大好きです。雨上がりの緑ってどれだけ美しいか・・・梅雨の時期ってジメジメして嫌なんですけど、私にとってはすごく好きな季節です。そういう自然界の色の重なりが人の心に何かをもたらす、と今でも思います。深い色だからこそ伝えられる思いの丈があるというか。
これまで私がつくってきた麻生地のやさしい色の世界観にも通じますし、博道の色へのこだわりは娘の千華に引き継がれ、蚊帳生地の鮮やかな色の世界を作っているな、と感じます。


次回、#2 井上博道記念館のはじまり につづく

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